LLCグロウイング&コミュニケーションコーチング協会

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生き方(ライフスタイル)を考える(その2)

「生き方」と言うタイトルに相応しい記事じゃないのかも知れませんし、今日はちょっと長いのですが、お付き合い下さい。
二十四節季の「雨水(うすい)」は2月28日から3月4日頃まで。春の雨が大地を潤し始め、山々に春の霞がたなびき、草木が芽吹き始める季節を表す言葉ですが、今日は風の冷たさを感じるものの、比較的暖かく、明日からはもっと気温が上がっていくとか。何故かウキウキしますね。季節は多少の迷走があるもののぶれません。ぶれるのは人間だけですね。
しかし、ぶれるからこそ人間である証といえる、と五木寛之氏は言う。

氏は著書「無力」(むりき、と読む)で、『「あの人は一貫性があって終始ブレない、立派なものだ」 よくそういう「ほめ言葉」を耳にしますが、それはまちがいではないか、と思います。「ブレない」のは人間にとって正常な、正しい状態ではないからです。人間の身体もときに病み、ときに病を克服し、調子のいいときもあれば、悪いときもある。揺れつづける動的でダイナミックな存在です。そして、年齢とともに心も変わる。それが生命のありようだろうと思います。・・・・最近、ベストセラーになった百田尚樹さんの小説「永遠の0(ゼロ)」を読むと、起承転結がしっかりしていて、とても面白い。よくできた長編です。ただ、戦争のとらえ方という点では、現実にその渦中を生きてきた世代にとっては、だいぶ感覚がちがいます。悪いのはあくまでも軍部の指導層で、兵士は家族を思い、国のために散っていった。この小説に限らず、そういうとらえかたが現在では一般的です。それはまちがいとはいえないが、当時も今も、悪とその犠牲者がきれいに分けられるわけがない。そう思うのです。おそらく、これも時代の流れというものでしょう。そう考えると、ブレるというのは人間のあり方として自然なことです。物事を固定的にとらえず、時代とともにブレながら生きる、それが人間のあるべき姿ではないでしょうか。』

読んで、自分がかつて、企業の幹部研修で書いた報告書を思い出しました。
「企業の管理者として自分のマネジメントの軸がブレている。そのブレがある限り仕事の成果は定まらないし、部下育成もままならない・・」というようなことを報告書に書いていたことを。
マネジメントの軸というのは、管理者自身が個人か組織のいずれに自分の立ち位置を置いているのかというようなことだったり、個人の欲求と組織の要請のいずれに立つのか、企業の利益と社会貢献のどちらに立っているのか、というようなことでした。そして、その両者を統合するところに自分の立ち位置を定めよ、ということが報告書の結論であったと記憶しています。
今にして思えばそのように書いたことが随分恥ずかしいという気持ちになります。
五木寛之氏に触発されていうわけではありません。自分自身が常に揺れ続けて生きているにもかかわらず、個人の立場に立って社会の立場に立たない管理者に対する憤りを感じてそのように報告書に書いた自分自身がどうだったのかを振返って随分と勝手なことを言っていたと思い返すからです。
ブレながら、どちらにしようかと揺れながら生きるのが人間だとしたら、大事なことはブレている自分を認識しながら、つまり葛藤しながら、どのようにするかを決めていきるのが人間であると見切ることが出来なかった自分がいたということです。

『・・・人は誰もが大河の一滴、と考えてみるのです。永遠不変を誓った恋愛もいずれは変わっていく。友情もまた変わる。この世では、変わらないものなど何ひとつない。すべてが変転していくのです。仏教の考え方のなかでは最も大事な無常。ある意味で、この無常観という情緒的な感覚を論理的にいうと、それが「無力(むりき)」ということになるのかもしれません。四十代ぐらいでは考えなかったことを、八十歳を過ぎて考える。それもまた当然のことです。・・・・・たえることのない世の変転のなかで生きていく自分は、どうすればいいのか。何であれ、人は自分が憧れる、頼れる軸のようなものを求めるのだと思います。それが「力」や自己啓発のブームにもつながっています。ただ、世の中がどんどん動いているのに、自分はさまよい、揺れてばかりで不安だとは感じないほうがいいと思うのです。人生は揺れ動く。白黒なんかつけられない。それでは納得いかないとしても、自分のなかにも。常に愛憎相半ばするものがあることは、考えれば誰でもわかるのではないでしょうか。・・・生を受けたその瞬間に、賞味期限六十年・有効期限百年、みたいなマークを首筋にペタンと押されて生まれてくるのです。・・・・・そもそも仏教の考え方は、自と他、生と死を区切ったり、分けたりはしません。自力か、他力か。考え方は両方あっても、現実はブレながら動くのだという認識を持っていることが、この時代に非常に大事なことなのだと思うのです。』(五木寛之著「無力MURIKI」新潮新書より)

今日は昼からジムに行き、ゆっくり遅めの昼食をとり、蔦屋で「罪の余白」という日本映画を借りて鑑賞して過ごしました。思えば昔はワーカーホリックな自分だと思い、それではいけないと思い揺れていたのですが最近はそんな感覚はあまりなく、仕事も遊びも楽しめればいいと思い定めています。しかしさすがに遊ぶ日が続くと、いけないんじゃないかという気持ちがもたげて、やっぱり今も揺れ続けている自分がいます。